第1幕 邂逅 第1章 それぞれの旅立ち
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それは突然、何の予兆もなく、うららかな春の宵に起こった。
辺りは一面、炎の海だった。
リィザの目の前で、巨大な城を支えていた、どっしりとした白い柱が、音を立てて崩れてゆく………。
それと同時に、リィザの意識もさらさらと崩れ落ちてゆく………。
どちらを向いても、炎が火の粉を散らして激しい勢いで燃え盛っていた。そこかしこで炎はその形を自在に変化させて、城の隅々まで呑み込んでいく。
城はもはや、その原型をとどめてはいなかった。この城を支えていたもっとも太い立派な支柱が崩れ落ちると、後は早かった。あちこちで、どかんとかどすんとか、天井の落ちてくる音や、壁が崩れる音が聞こえてくる。 もうこの城がもたないことは、明らかであった。 しかし、少女は微動だにしない。 逃げようともしない。 よく見てみるとその目は、焦点を結んでいなかった。
ただ虚ろに周りの風景をその瞳に映すのみである。 熱風で、肌はぢりぢりと焦げるかと思うほどに熱く、額からは大量の汗が噴きだす。 大量のすすや灰が目に入ってきて目が痛くて、涙が吹き零れる。
煙を思いっきり吸い込んで、思わずリィザはむせて咳き込んだ。
しかしそれらすべての一連の反応は、彼女にとっては生理的な条件反射以外の何物でもなかった。
―――――なぜなら、彼女は今目の前で起こっている現実を直視できず、ただただ突っ立っていることしかできなかったのだから。
炎がはぜるたびにその光を反射して、少女の腰まである緋色の長い髪がよりいっそう紅く映える。 夢であればどんなにいいだろう?
しかし、目の前のこれは紛れもない現実だ。
―――――――エルフィーア王国はイスハルーン帝国に侵略された。
まさに突然の出来事だった。予想すらできなかった。なぜなら、イスハルーン帝国はエルフィーア王国とは盟友の関係にあったのだから。
一体何が起こったというのだろう?
悪夢か、幻か、はたまた白昼夢でも見ているのか。現実に、思考が追いつかない。
何もかも、わからない。いや、わかりたくなどない。
こんな現実など、受け入れられるはずがない―――――!
やっと16歳になったばかりの幼い少女には、到底今目の前で起こっていることを受け入れることなどできるはずはなかった。 直視することすらできず、少女の脆い精神は防衛反応を引き起こして意識をどこかへ飛ばしてしまう。
そうでもしなければ、この脆い心は硝子のように砕け散ってしまうから―――――。
意識を飛ばしてしまえば、この現実を直視せずにすむから―――――。
少女の美しい薄い湖水色の瞳は、まるで夢でも見ているかのように虚ろで、少女の心がここにはないことを物語っていた。
彼女はもはや、現実世界の住人ではなくなっていたのだ。
「リィザ。こちらに来なさい」
静かに、姉であるフェオラが妹を呼ぶ。リィザは、ふらふらと、さながら幽鬼のように姉の方へ歩み寄ってゆく。その動作は、彼女に意識が戻ったからではなく、単なる条件反射であった。その証拠に、彼女の瞳はひどく虚ろでまるで生気を感じさせない。
しかしそのような状態の妹を目にしても、フェオラの表情は一切変わることはない。ある程度こうなることを予想していたからだろうか。非常なほどに冷酷な、厳しい声音で言う。いつもどおりに。
「お父様とお母様に、最期のご対面だ」
「お父様……お母様……?」
その言葉に、リィザはぼんやりとそのうつろな視線を姉の方へと向ける。
その数瞬後、はっとリィザは我に返り、到底受け入れがたい現実を目の前に突きつけられることになる。
気が付くと、無意識のうちに悲鳴に近い声をあげていた。 「お父様とお母様は!?」
そんな状態の妹にも、やはり姉は冷静に反応する。
「だから、ぐずぐずしている暇はない。今、「最期の対面」と言ったのが聞こえなかったのか? いいから、早く来るんだ!」
フェオラは、ただ呆然と立っているだけで精一杯の妹の手を無理やり引っ張って、その身体を半ば力ずくで引きずるようにして階上へ向かおうとする。
「お父様とお母様は生きていらっしゃるのよね? お姉さま!? ―――――ねえ、お姉さまったら!!」
リィザは必死の思いだった。その声には、儚い奇跡を切望するリィザの気持ちが滲んでいた。まるで、「こんな現実、信じないわ!」とでも叫んでいるかのような悲鳴に近い渾身の叫び。
「うるさい。さっき言っただろう。「最期の対面」だ、と。聞こえなかったのか? これは現実だ。そして今は、ぐずぐずしている暇はない。さっさとついてくるんだ!」
「うっ、うそよっ………お父様――――! お母様――――! 死んじゃいや! いやああああああああああっっ!!」
彼女の華奢な身体を支えていた力のすべてが抜け、くたりとその場にへたり込むや否や、哀しみが声にならない叫びとなって、身体全身を突き抜け、口から嗚咽となって漏れる。ただ狂ったように泣き叫びながら、嗚咽する。か細い肩が激しく上下する。今にも崩れ落ちそうな細い身体は激しく痙攣していた。彼女は、その小さな身体全体で、哀しみを必死に消化しようとしていた―――――。
リィザの幼い心は、「両親の死」という残酷な現実を受け入れることは到底不可能だった。
哀しみと衝撃が大きすぎて彼女の精神の許容量を超えてしまい、またもや彼女は自分の精神が壊れないように自分を守るため、意識を飛ばせてしまう。
それが幼い少女の、精一杯。 壊れてしまわないように必死に自分を守ることしか、今の彼女にはできなかった。
目が、硝子のように虚ろになる。
彼女の薄い湖水色の両の瞳は、もはや焦点を結んではいなかった。
さすがのフェオラも、このような状態で妹を引きずるわけにはいかなかった。意識のない者の身体は何にも増して重いのだ。そこで仕方なく、フェオラは実力行使に出る。
ばしぃっ!
彼女は、力いっぱい妹の頬を張った。
高いところで一つに束ねた、フェオラの緋色の長い髪が勢いよく舞う。
リィザははっと我に返ってして思わず姉の瞳(め)をじっと見つめる。そこにはあまりにも意外なものがあったから。
姉も、泣いていたのだ。濡れるような漆黒の瞳からは水滴が零れ落ち、頬には幾筋もの涙の筋ができていた。 リィザは衝撃を受けた。
―――――あの、気位の高い、眩いばかりに強いお姉様が泣いている!?
それは信じられない事実だ。姉は、いつも気位が高く、彼女が泣いているところなど今まで1度たりとも見たことがなかった。姉はいつも気高く、黄金色に輝いているように見えた。
その姉が、泣いている!? そして、「そうか」と思い直す。
思えば、まだ姉とてまだ18になったばかりなのだ。いくらいつも強い姉であろうと、さすがに両親が亡くなるとなれば、哀しいのは当然である。なのに、頼りない妹の自分がいるから、姉は泣きたいのを必死で堪えていたのだ。そして、つらい現実と対決して、その現実を受け入れ、この自分を導いてくれようとしている―――――。
リィザは心の底から姉に申し訳なく思った。姉は、自分のために哀しみを必死で押し殺し、どんなにつらくてもこの現実を受け入れたのだ。 いや、「受け入れた」というよりも、受け入れざるを得なかったのだろう。 いくら現実がつらく受け入れがたくとも、自分を守り、そして妹を守り導くことが出来るのは自分だけであるという現実を自覚していたから。 それに比べて自分は―――甘えさせてくれる姉がいるばかりに、感情に流されるままだ。 自分もしっかりしなければ、と思う。自分ばかり、哀しさに埋もれて姉に迷惑をかけるわけにはいかない。姉とて、この胸を張り裂くような哀しさは同じはずなのだから。 もちろん、頭では殊勝にそんなことを考えても、実際に心はそんなに素直に言うことを聞いてくれはしない。哀しさとやるせなさで張り裂けそうに痛い。頭が、衝撃の事実にくらくらして、自分の足で突っ立っていることだけで精一杯だ。立つことすらも危うい。 今にも心が砕け散りそうになる。意識が飛びそうになる。
しかし、すんでのところで現実の世界にリィザをつなぎとめているのは、大好きな姉を困らせたくないという気持ちだった。
リィザは、またしても翔り去ろうとする心を、姉を想う気力だけで辛うじて保つ。
リィザは必死で現実を受け入れる覚悟をしようとしていた。
半泣きになりながらも、唇を必死で引き結ぶ。泣かないように、意識を飛ばさないように。必死で、必死で、噛むように唇を引き結ぶ。
つらくてつらくて、怖くて仕方がない。真っ暗闇の中に独りだけで放り出されたような怖さ。 ―――――でも、今はどうしても現実を受け入れるしかない。
リィザは翔り去ろうとする意識と現実との間で、全身全霊で戦っていた。 それで今のリィザには精一杯だった。
しかし、明らかに以前とは顔つきが変わっていた。 その表情(かお)を見て、フェオラは今までとは打って変わって、優しい表情になる。
リィザの精一杯が伝わったのだ。 健気な妹に、フェオラは愛しさを感じる。だから、自然と優しい顔つきになる。
フェオラは、普段の彼女からは想像もつかないような、慈愛に満ちた声音で、頼りない幼い妹に語りかけた。
「リィザ………頼むから、しっかりしておくれ。おまえは、お父様とお母様が生きているうちに会えなくなってしまってもいいのか? 話せるのは、もう、今だけだ。それはわかっているな? おまえが悲しみに捕らわれてしまっている間にも、お父様とお母様は死に逝こうとしている。悲しむのは、後でもできるんだから」
姉はそう自分に必死に言い聞かせているようだった。リィザは、それをはっきりと感じ取る。 (お姉様………!)
リィザは、溢れ出る涙をぬぐおうともせず、覚悟を決めた表情(かお)で、はっきりとうなずいた。
姉とて哀しみは自分と同じはずなのに、どうして姉は、こんな時ですら取り乱すことなく、自分のことを気遣えるのだろう?
心の底から、リィザは姉を強いと思った。そして、いつかは自分も、姉ほどに強くなりたいと切望した。
(私は、強くなる―――――――――!) リィザは、そう心に誓う。
今にも意識を失いそうな弱い自分。怖くて怖くて、立っていることすらままならない。 しかし、
姉はちがう。姉とてつらいはずなのに、妹である自分がいるからという理由で、その現実をしっかりと受け入れてしっかりと立っている。そして、この頼りない自分を導いてくれる―――。
自分はこんなにもつらい。 姉もつらいはずなのに、どうしてこんなにもしっかりとしていられるのか。 輝かしい姉。強い姉。
自分も、強くなりたい―――――。
フェオラはリィザの様子を見て一つうなずいてから、自身の涙をぬぐおうともせず、ただ急ぎ足で静かに階上を目指した。
その手に、頼りないリィザの手はなかった。もはや、引く必要はなかったのだ。 |