9 泣きやんで見上げた空はやっぱり蒼くて、その鮮烈な蒼さが目に染みた。
シリウスは「夢見る肴」亭まで戻って、すでに厨房で忙しく立ち回っているサリサを横目に見ながら自分の部屋に戻り、もってきた金貨をもって市場に出かけた。そして、髪を隠す色鮮やかな藍色に染められたターバンを買って戻ってきて、その場で髪一筋余すところなく隠して頭に巻いた。シリウスは、今ほどサリサからもらった衣装の数々をありがたいと思うことはなかった。
「サリサさん」 その声にサリサは振り向く。 「あんた………もう行くのかい?」 サリサはシリウスの出で立ちを見て目を見開いた。やはり思い違いではなく、サリサは自分のことを好いていてくれたらしい。思えば随分お世話になったな、と思う。この女性(ひと)のおかげで、自分の心は救われたのだ。 「はい。本当にいろいろとよくしていただいて………ありがとうございました」 あくまでも、「赤の他人にもかかわらず」とは言わない。そう思っている、けれども……その言葉はサリサのまっさらな好意を踏みにじる言葉だから。 「ぼく、お金ならいっぱいもってますよ」 あえて、言う。なるべくなんでもないように笑いながら。 「だって、ぼくはイスハルーンの第一王子だから」 ものすごく勇気のいる言葉だった。決死の想いで、言った言葉だった。しかしサリサは、シリウスが想像したような―――「騙したんだね!」と罵られるとか、「あんたら王族はどうせあたしらのことなんて見下してるんだろ」と蔑まれるとか、侮蔑の顔をされるとか、非常に冷たく酷く当られるとか―――反応を示さなかった。 「なに泣きそうな顔してるんだい」 そう言うその声は予想した類のものとは程遠く、本当に優しくて。その表情は、この暑い砂漠には不釣合いな、穏やかで優しい、いつかの夜と同じヒトの母のもの………。 「―――――………っ!」 驚きとうれしさと―――、とにかく感動して。………やっぱりこの女性はどこまでいっても温かい。 「だって………ぼくなんて、生きている意義も意味もない」 絞り出して言ったその言葉に。 「こら! 冗談でもそんなこと言うもんじゃないよ。冗談ならまだしも、本気でそんなこと思ってるならますます問題だね。たとえどんな理由があろうとも、存在しちゃ生けない生き物なんてこの世界にはいないの。空気も、水も、人間も、ちゃんと祝福されて今ここに存在してる。存在してる意味なんてなかったら、最初っからこの世にあんたはいないんだ。あんたが今ここにいる、そのことが最大の答えじゃないか。 涙が零れた。 「あんたはとってもいい子だよ。ずっとそのままでいておくれよ? 王族でその純粋さは本当に貴重だからねえ。 その言葉に、さらに涙は溢れる。「あんたはそのままでいいよ」と、無条件に自分という存在を受け入れられた気がした。 「いつでも帰っておいで。あたしはすべての旅人たちの母親なのさ」 泣いているシリウスにやはりサリサは「あっはっは」と笑って、シリウスの方に歩み寄ってその身体をぎゅうっと抱きしめる。サリサの恰幅のよい大きな身体からは、砂漠の乾いた風の匂いと、駱駝の乳の匂いと、パンの匂いがした。シリウスも、恐る恐るサリサの背に腕を回した。そして、ぎゅうっと抱きしめ返す。 「……絶対に、また帰ってきます」 くぐもった声でそういうのが精一杯。もちろん、その中には「ありがとう」の想いも一杯込めて。
「いつでも帰っておいで、愛しい息子」 「―――――愛しているよ、シリウス。祝福を……………」 |