13
「ああああああっ、王子、一体どこにいらっしゃるんですかっ!」
イスハルーン帝国の王宮の回廊を足早に駆けているのは、流れる絹糸のように美しく長い銀の髪をゆるく一つにまとめた長身の美しい青年である。
(シリウス王子、本当に一体全体どこにいらっしゃるんですか……!?)
朝からずっと、もうすぐ昼になろうかという今の今までシリウスを探し回っているが、広い王宮のどこを探しても求める姿はない。
(まさか……王子はこの王宮にはもういない……?)
ふと過ぎった悪夢を必死で頭から追い払うが、不吉な予感はどうしても消えない。仮にも宮廷僧侶である青年には、多少の勘の鋭さはその職業柄身に備わっているのだ。
やはり昨夜のことが原因なのかもしれない。
(わたしが、あのことを話したから……)
あれ以来ずっとシリウスの様子がおかしかった。もっと早くに気付くべきだったのだ。
(いけない……どうすれば……)
とにかく何か手がかりを探そう。
思い立って、シーリスはシリウスの部屋に向かった。
慣れ親しんだシリウスの部屋は、主がいないせいか、心なしか物寂しく感じられる。
「やっぱり……もう王宮(ここ)にはいらっしゃらないんですか……?」
問いかける言葉は、聞く張本人もいないまま虚空へと吸い込まれる。
はぁ……。
無意識にため息をつく。
自分の勘が「それは正解だ」と告げていたからだ。
「さあ、どうするかな……」
やはり自分が追いかけるしかない、か。
その時、シーリスの目に羊皮紙が飛び込んできた。それはシリウスの机の上に置いてあった。
その文章を読んで、シーリスは思わず言わずにいられなかった。
「あの世間知らずが……!」
ぬくぬくとみんなに守られて王宮で育った王子に何ができるというのだ。
あの世間知らずの王子が何を考えてこういう行動に出たのかくらいすぐにわかった。だてに十数年も一緒にいたわけではない。
シーリスは腹立たしく思う。
「結局王子は何一つとしてわかちゃいない」
シーリスは舌打ちした。
まったくいつまでも手のかかる子供だ、と思う。もちろん本人にそんな自覚はまったくないのだろうが。
(さあ、どうするか)
どうせシリウスがいなくなったことに周りの者たちが気付くのは時間の問題だ。
(ぐずぐずしていても仕方がないな……)
シーリスはさっさと次にとるべき行動を決めると、羊皮紙を持って王の部屋に向かうべく、シリウスの部屋を出た。
コンコン。
静かにシーリスは王の部屋をノックする。
「シーリスです。入ってもよろしいでしょうか」
すると中から「どうぞ」としわがれた声が聞こえてきた。
シーリスは王の返事の後に、そっと重い金属の取っ手をおして部屋の中に入った。
王の部屋は、王子であるシリウスの部屋に比べると随分質素なつくりだった。絨毯やカーテンも華美ではなく、地味な無彩色を基調としたものばかりだ。しかし、それぞれの品はどれひとつ取っても極上のつくりのものばかりだ。
王の部屋に入るのは初めてではなかったが、やはりシーリスは調度品に見てとれる王の人柄を尊敬せざるにはいられなかった。
ベッドから身を起こした王は、以前に見たときよりも小さくなったように思える。まだ中年の域に達したばかりのはずなのに、実際の年齢よりは少なくとも十は老けて見えた。先ほどの応答の声も、元気がなく、老人のような嗄れ声だったことを思い出す。
シーリスはそんな王をつらくて見ていることができなかった。
もう16年も前になるが、王宮の前に捨てられていた6歳の自分を拾ってくれ、そしてそればかりかどこの骨とも知れぬ自分を「王子の従者」という立派な役職に付けてくれたのはこの王様だった。さらに王は、こんな自分を自分の大切な息子と一緒に育てることに決めてくれたのだ。
故に、シーリスは王には感謝してもしきれないくらいの感謝の気持ちでいっぱいだった。その大切な王が、こうして徐々にやつれていく様を見ているのは、自分の心臓が削られるような心の痛みを覚える。
王のベッドのそばにひっそりと座っている王妃は、そんなつらそうにしているシーリスを見て、また王妃自身もつらそうに微笑んだ。
おそらく王妃もまた今の自分と同じような気持ちなのだろう。
「ありがとう」
たった一言、王妃は言った。
その一言で、シーリスは王妃が何を言いたいのかを理解する。
「いえ、わたしも同じ気持ちですから……」
シーリスはひっそりと微笑んだ。
そうすると、王妃も微笑み返してくれた。
今、シーリスと王妃は同じ大切な人に対する同じ感情を共有する同志だった。
微笑み返してくれる王妃は、死の淵にいる王とは対照的に、実年齢よりは少なくとも十は若く見える、美しい女性だ。儚い、硝子細工のような、完璧にして繊細な美貌が、シーリスは大好きだ。
ふう、と一つ大きく息を吸って吐き、ようやくシーリスは本題を切り出す。
「王、大事なお話があります」
王は一つ頷いた。
それを確認すると、シーリスはゆっくりと話し出す。
「王子が……この王宮からいなくなられました」
そして例の羊皮紙をだまって王に手渡す。
何事かとさらりとその文章に目を通した瞬間、王の顔は強張った。
「申し訳ございません。わたしの責任です。どんな罰でも受ける所存でございます」
シーリスはその場に跪いた。
シーリスは本気だった。王は命の恩人であり、その命の恩人の大切な息子を逃してしまったのは自分の責任である。どんな罰でも受けるつもりでいた。
「シーリス。顔をあげてくれ。だれがそんなことを言おうか? お前は本当によくやってくれている。感謝しているよ」
シーリスはっとして顔を上げる。
「わたしは……どうすれば?」
「これは命令ではない。王ではなく、あれの父としてお願いする。どうか、あれの後を追ってはくれぬか? 宮廷僧侶の中でも特に優秀な僧侶のお前なら、あれの行方もわかるのだろう?」
「……はい。水晶球をもってすれば王子の辿った行方がわかります。しかし、追跡にはかなりの時間がかかるものと思われます。王子の近くであればあるほど水晶は細かい景色を映し出すのですが、王子との距離が遠くなれば遠くなるほど、水晶の映し出す風景は曖昧になります。ですから、追跡は王子の辿られた痕跡を追うという形になりますので……追いつくまでにどれだけかかるか……」
「それでもいい。だから、どうか跡を追ってくれないか? そして……どうか王子を……守ってやってはくれまいか?」
シーリスは激しく感動した。溢れる喜び。
敬愛してやまない王が、王としてではなくただ一人の父親、人間として、シーリスを必要としてくれることが、彼には心が震えるほどに―――今ここで嗚咽して泣きそうになるくらいに、うれしかった。
「もちろんです……!」
シーリスは再度王の前に跪いた。どれだけ王が自分のことを信頼してくれているのか、シーリスは気が付いたのだった。全身全霊で、己が命さえもかけて、大切な人の想いに報いたいと思った。
「必ず、王子をお連れして、生きて戻ってまいります」
「まさかお前、死ぬ気ではあるまいな? 無論、おまえも生きて戻ってくるんだぞ」
王の、孤児であるこの自分を、本当の息子でもないこの自分を気遣ってくれる言葉が、砂漠に水が染み入るように、シーリスの乾いた愛に飢えた心に染み入る。
思わずこぼれそうになる涙を必死の思いでこらえて、シーリスは渾身の想いを込めて、誓う。
「…………必ず!」