９
いよいよ朝が来た。旅立ちの、朝が。
しかし今はまだ村人のだれもが、リザが今日まさに旅立とうとしているとは、夢にも思っていなかった。
空の端が白んできた頃、リザは自分の胸の高鳴りで目が覚めた。眠気より、興奮の方が勝ったのだ。サラには「いつもならお昼に起きるのにね」とからかわれた。それに対してリザは、「だって、今日は人生の一大事だもの」と笑って答えた。
太陽がその全貌あらわにし、いよいよ村のすべてを照らし出そうとしている。
――――――17歳の誕生日がやってきた。
もうそろそろ、いつも村人たちが起き出す時間である。
草原は、太陽の光を浴びて、全体が黄金色（きんいろ）に輝いている。いつもは緑一色の草原が、生まれ変わる時間。それは、自然の奇跡だった。
風が吹くたびに、無数の黄金色（きんいろ）の草草がざざあっと音を立ててたなびく。
優しい優しい黄金色の景色、色。
いつもお昼頃に起床するリザは、初めてその雄大な奇跡の空間に身を置く。
ここに自分ごときがいてもいいのかと思ってしまうほどに、その景色は神聖だった。
――――――再生。
あたしも、今日、生まれ変わるのだ。新しい自分に。
今日、何かが起こる―――。
リザは、浮ついた足取りで村に戻った。
まずは、草原に生えている葦で造った自分の家へ戻る。
扉を開けると、母はすでに朝食の準備を始めていた。朝早くに家に戻ってきた娘を見て、驚いたように「まあ、何事？ あなたがこんな朝早くから起きているなんて！」と言った。
「ふふふ。今日は、特別な日だから」
「ああ、今日はあなたの誕生日ね」
今はじめて思い出したように母は言う。
「ち、が〜う！ もっと他のこと。もっともっと大変なことよ」
リザは意味ありげに笑った。
「何よ。気持ち悪いわね〜。また変なことたくらんでるんじゃないでしょうねえ！」
母は「やれやれ」と苦笑する。いつものことであった。
「ふっふっふ。私にとっては真剣なことよ。母さんにとっては「変な」ことでもね」
そういって、突如、リザは母の目を真剣に見つめた。
そんなリザの態度に、母はいつもとはちがう娘の様子を感じ取った。母の表情（かお）も真面目になる。
そして問うた。
「あなたは一体、何をたくらんでいるの？」
そして、小さくため息をつく。おそらく無意識だろう。母は母であるがゆえにわかっていた。娘が真剣に何か言い出すときは、いつもろくなことがない、ということを。
「あたし、もう大人よね？」
じいっと母の目を見つめるリザ。
母は嫌な予感がした。背筋に冷たい汗が流れ落ちる。かつてないほどまでに、嫌な予感がするのはどうしてだろう？
再度、今度は大きくため息をついた。もちろん、これも無意識である。
自分から答えを聞く勇気はさすがにもてなかった。
そんな母の気を知ってか知らずか、ふいにリザの口から爆弾宣言が飛び出す。
「あたし、今日、旅に出るから」
アタシ、キョウ、タビニデルカラ―――――――…………。
あまりに予想外のことを言われて、母は娘の言葉を解読するのに数瞬の時間を要した。
「あんた………今、なんて言った？」
母の声は、驚きで動転するあまり、声が掠れていた。
そんな母の気も知らず、リザは何でもないことのように、言ってのける。
「聞こえなかった？ あたし、今日旅に出る、って言ったのよ。母さん」
きらきらと瞳（め）を輝かせる娘を見て、母はこれまでの経験から、これ以上何を言っても無駄だということを悟る。
はああああああああああああああ…………。
今まで生きてきた中で、最高に長いため息だった。もちろん、無意識である。
｢あの人が出て行って以来、わたし、ちょっとあなたを奔放に育てすぎたわねぇ｣
母はため息混じりの苦笑で言った。
「いいのいいの！ きっと父さんだって、こんなに元気にあたしが育ったことを喜んでくれてるわよぉ！ まあ、今どこにいるかまったく定かじゃないけどね」
「まあ、元気が一番ね」
母は笑う。
「あの人と同じね、リザも。あの人も、「おれは、宝物を探しに行くんだ」ってまるであなたと同じような瞳（め）をして家を出て行ったわ。リザも、やっぱりあの人の娘なのね。まったく同じような瞳をして、そんなこと言うんだもの。お母さん、びっくりしたわ」
母は少しだけ寂しそうに笑った。
そのときはじめてリザは、自分が出て行けば母を一人にしてしまうことに気がついた。昨夜したばかりの決心が良心で揺らぐ。
そう………父さんも出て行ったんだよね。それで、まだ………11年たった今でも帰って来ないのね―――。
自分だけは母のそばにいてあげなければという気持ちと、旅に出たいという気持ちが交錯する。
そんな娘の気持ちが伝わったのだろう。母は言った。
「あなたは、旅に出るべきよ。あなたは若いんだから、あなたの夢をぜひ叶えてほしい。あなたの夢が叶うこと、それはすなはちわたしの夢が叶うことでもあるんだから」
母は静かに微笑む。それは、すべての母である力強い大地母神のような微笑みだった。そこに、涙はない。
リザは、母の言葉に目頭が熱くなった。自分を想っていてくれる母の愛を感じたから、涙が溢れそうになる。
でも、そこは人一倍意地っ張りのリザだった。決して、涙を流すまいと必死で涙を堪えて、自分が泣きそうになっていることを悟られないように努力した。そして、その試みは成功した。
母は何も気付かなかった。
リザは努めて明るく言った。
「ありがとう！」
母は、笑って軽くうなずく。
「あたし、絶対父さんを見つけて、これ以上母さんを悲しませないように、引きずってでも連れて帰るからね！ 期待してて」
「あら、それは頼もしいわね。ぜひ、期待してるわ」
二人は同時にぷっと吹き出して、そのまま笑い転げた。
心も爽やかな、旅立ちの日の朝になった。
「じゃあ、早速準備しなさい。そうね。村長にはわたしから話を通しておくわ。もちろん、事後承諾ということで」
母はイタズラっぽく笑う。その瞳（め）がキラリと光る。共犯者の合図だ。
血は争えない。まさに、「この母にしてこの娘あり」である。
「か………母さん、いいの！？ あのガンコモノの村長が出し抜かれたと知ったらどれだけ怒るか！」
「だって、どうせ今言いに行っても同じじゃない。怒りながら止められるだけよ。同じ怒られるのなら、先でも後でも一緒だわ」
母はにやりと笑う。リザは吹き出した。
「ちがいないわ。それじゃあありがたく、母さんにはあたしのかわりに村長に怒られてもらうこととするわ」
「お礼は、父さん、ということで」
リザは「やれやれ」と苦笑しながら首をすくめる。リザは、そんな豪快な母親が大好きだった。
「どうせあなたのことだから、もうとっくに準備はできているのでしょう？」
「もちろん」
母はぷぷっと笑う。
「やっぱりね。これから食料と水だけたっぷりと準備してあげるわ。その間に、この村と最後のお別れでもして来なさい」
「はぁい。じゃあ行ってきま〜す」
リザは手をひらひらと振って、外へ出て行った。
母は、リザの出て行った扉まだ見つめながら、「あの娘（こ）、やっぱり貴方の血を引いているだけあったわ」と、まるで夫が今そこにいて、夫に語りかけるかのような口調で言った。
もちろん、その言葉はだれに聞かれることもなく、風の中にひっそりと消えてゆく。