「さあ、約束どおり、妹を放してもらおうか」
フェオラは勝ち誇った表情(かお)で、そして嘲るような口調で言う。
フェオラは勝利を信じきっていた。何の油断もせずに。
男は、どれだけたっても何も言わない。フェオラの期待している反応は一切なかった。
(何考えてるんだ………コイツ!?)
次第に苛立ちが募る。そして、とうとうフェオラは声を荒げた。
「おい、さっさと妹を解放しろ!」
男は、フェオラに剣を突きつけたれたままだというのに、顔が蒼白になるでもなく、またがたがたと震えるわけでもなく、にやにやと笑っている。
「何がおかしい!?」
フェオラは、さすがに様子が変だと思い始める。
「約束だぞ。放さなければ―――――このままオマエをコロス」
背筋の冷えるような冷たく鋭い声で物騒な科白を平気でフェオラは吐く。瞳には、絶対零度の冷たく鋭い光を湛えて。
その決心には少しの迷いもない。敵の命を奪うことにはもはや躊躇いすら感じない。すでに戦場で敵の命を奪うことに慣れてしまっていた。
「敵に一切、容赦はしない」。これがフェオラの戦での信条だった。
戦では、殺(や)らなければ、殺られる。二つに一つだ。
じっとフェオラは男を睨み付ける。そして、自分の言葉が脅しではないのだと、薄く剣の切っ先で相手の肌に触れる。冴え冴えとした切っ先が、男の喉の皮膚を薄く引き裂いた。そこからうっすらと鮮やかな朱がにじむ。
「つっ………」
(なんて女だ…………)
顔には出さなかったが、男は内心で舌を巻いていた。
しかし、それでも男の表情は変わらなかった。
男はひっそりと笑っていた。それは、勝利を確信している者の笑みだ。先ほど、自分が浮かべたものと同類のそれ―――。
フェオラは焦っていた。戦では、冷静さを失った方が負ける。それは経験上、十分すぎるほどに分かっているつもりだ。しかし、心が言うことを聞かない。
男の心が読めずに、次第にフェオラは冷静さを失ってゆく。そんなフェオラの様子を、男は楽しげに眺めていた。
フェオラの怒りは限界に達した。剣を振り上げ、そのまま男の喉を一突きにしようとし――――――――、しかしその時だった。
劈(つんざ)くような妹の悲鳴が耳に飛び込んできたのは。
空気が―――、時が、とまる。
「リィザ!?」
フェオラはとっさに振り向く。するとそこには、乱暴に髪をわしづかみにされたリィザの姿があった。
「リィザを放せっ! 約束だろう!?」
必死の思いで叫ぶ。もはやフェオラの心に先ほどまでの余裕は微塵もなくなっていた。
―――――大切な妹が乱暴な扱いを受けている。
その事実が、フェオラからすべての冷静さを奪い取ってしまった。
「やっぱり甘いな。温室育ちのお姫様は」
その時、目の前でそう嘲る声がした。フェオラが打ち負かした男だ。
まちがいなく、フェオラの目の前のこの男は、誇り高き王室騎士団女団長がこの手の言葉をもっとも嫌うであろうことを見越して使っていた。
「おれら盗賊が、んな律儀に約束を守るとでも思ったのか? 大切な者がいる限り、強くはなれまい」
そのとおりだ。
今やリィザは、完全無欠のフェオラの唯一の弱点であった。
なおのことはない。この男は意図も簡単にそのことに気付いただけの話だ。
だからこそ、リィザを人質にとった。もしものときに決して自分たちが負けることがないように。
フェオラはようやく男の心を知る。
その卑しさに、フェオラは逆上した。突きつけていた剣の切っ先を、そのまま男の喉に突き刺そうとする。
と―――――、
「いやあああああああああ!!」
今度は、先ほどもよりもさらに甲高いリィザの悲鳴が耳を劈(つんざ)く。
あわてて振り向いたフェオラの目の先に飛び込んできたのは、あまりにも惨いリィザの姿だった。リィザは、あの長く美しい緋色の髪を無残にもざんばらに切り裂かれていたのだ。
切り刻まれた鮮烈な緋色の髪の束は男の手の内にあった。
繊細な絹糸を思わせる上質な質感が見た目にも伝わってくる。
もはやその上質の絹糸は、あるべき持ち主の元にはない。
それが余計に痛々しさを感じさせる。
衝撃が大きすぎて、フェオラは現象を理解するのにしばしの時間を要した。
フェオラは息を呑む。
次第にふつふつと抑えきれない怒りが腹の底から湧いてくる。
リィザの、あの美しかった長い緋色の髪が、このような下賎な輩の手によって、切り刻まれてしまったという事実。
――――――リィザが、穢されてしまった………!
受け入れがたい事実。許されない行為。
リィザは、フェオラにとっては何人にも侵されざるべき聖域そのものの存在だったのだ。
堪えようのない怒りが、疾風となってフェオラの心に吹き荒れる。吹き荒れる嵐は、どうしようと、抑えることはできない。
フェオラの瞳(め)が殺気を帯びた。氷のように鋭く冷たい、刺すような絶対零度の瞳(め)。その瞳で睨まれようものなら、死んでしまうかもしれない。そう思わせるほどに、それは容赦のない厳しい瞳だった。
しかし、男は動じない。それどころか、悠然と言い放つ。
「これが事実だ。貴様の大事な妹の命は、こちらにある。殺そうと思えば、いつでも殺せるんだ」
男の言うとおりだった。こんな男が死のうが生きようがどうでもいい。しかし、妹の命を危険にさらすわけにはいかない。それが、今のフェオラにとっては最も大事なことだった。
今や妹の命は、何物にも代えがたい大切な大切な宝物だった。妹のためなら、自分の命なんて惜しくはない。
こちらの分が悪いのは明らかだった。
「で、どうしろと?」
フェオラは怒りを隠そうともせずに言う。今やたった一人の肉親である妹すら守る力のない自分が不甲斐なかった。
もっとも大切な妹の命が相手の手にある以上、たとえ剣をもっていたとしても、今の自分はたった一人の無力な女に過ぎない。
そのどうしようもない事実が、誇りの高いフェオラの心を打ちのめす。
「聞き分けがいいな。それでいい」
男は下卑た笑いを浮かべる。
フェオラは、怒りの炎がより一層激しく燃えるのを感じた。
妹のことすらなければ、間違いなく剣を一思いに男ののどを突き刺しているものを。
「まずは、武器を捨てろ」
フェオラの顔が引きつる。すぐには動けなかった。今、唯一の命綱をみすみす手放すわけにはいかない。
剣を放そうとしないフェオラに痺れを切らせて、男は怒気を含んだ声で言った。
「どうした? 妹の命がどうなってもいいのか? ………おい、やれ!」
「きゃあ!」
遠くから妹の悲鳴が聞こえた。身を引き裂かれるような心地がした。
そして―――――とうとう、フェオラは唯一の武器を棄てた。