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この中年女性の家は、どうやら酒場のようだった。それも、かなり規模の大きな。しかし今は日中だからか、広い酒場はがらりとして客は少なかった。 シリウスの腕を強引に引っ張りながら、女は酒場のど真ん中を堂々と突っ切って自分の部屋にシリウスを連れ込む。
「あんた、いいところのおぼっちゃんだろう!」 その中年女性―――サリサと名乗った―――は、自分の部屋にシリウスを引っ張り込むや否やびしりと指を突きつけて言う。 「どっ………どうしてわかったんですか!?」 おかしい。自分は名を名乗っていないはずだし、境遇についても一言も漏らした覚えはないぞ、しかもちゃんと簡素な服を着てきたはずだぞ、と真剣に悩み始めたシリウスに向かってサリサはあきれたようにため息をついた。 「あんたねぇ、身分隠したいんならもっとそれ相応の変装をなさい。多少地味な服を着たくらいで、到底一般庶民に手の届くような品物じゃないんだよ。それ、エリューサの糸を織ってつくった服でしょう? ここは商人の国よ。あたしのような平民でもあんたが着ているものがどれほど高価なのかわかるんだから、見る人が見ればあんたが着ているものの価値からあんたの身分なんてすぐに割れるのよ」 その言葉でシリウスはさっと青ざめる。 「ほら、そこでまた考え込まない。あんたまだこの国に来たばかりでしょう? 指名手配されているわけでもなんでもないのに、来てすぐに何も起こるわけないじゃない。本当におぼっちゃんだねえ!」 そう言ってサリサは砂漠の陽射しのようにからっと笑う。 彼女からは、どう考えても危険な匂いはしなかった。 「ま、見つけたのがこのあたしでよかったわね。だれにも指摘されなかったらきっとずっと気付かなかったでしょう? あんた」 「はい。ほんとにサリサさんに見つけていただけてよかったです」 もちろんシリウスにとってはそれは心底からの言葉だった。しかし、サリサはその言葉に一瞬目を丸くしたのち、弾けたように大笑いを始めた。 シリウスは、なぜ自分がそこまで笑われているのか気が付かない。 「い、………一体どうしたんですか!?」 心配そうにサリサに駆け寄る。そんなシリウスの反応にますますサリサは大笑いする。ついにはおなかを抱えて床に座り込んでしまった。
「あー、おなかが痛い! たのむよ〜おぼっちゃん。きっとあんた、あたしが「毒草を食べて笑いが止まらないんだ」って言っても信じちまうんだろうね?」 「そ……そうなんですか!? 本当に大丈夫ですか!? サリサさん」 「あー、大丈夫さ。あんたの希少価値がおもしろいだけさ」 当然シリウスはその言葉の意味を解するはずもなく。
シリウスを気が済むまでからかって一通り楽しんだサリサは、ようやく本題を切り出した。 「うちにちょうど息子のお古があるからそれ全部やるよ」 「えっ………悪いですよそんな!」 当然のごとく遠慮するシリウスに、サリサは強く言い切る。 「変なところで遠慮しない。あんたが着てるその服に比べれば全然比べ物にならないくらいの価値しかないんだから」 「でも……む、息子さんは?」 「長兄は今はイスハルーン帝国で暮らしてるさ。今は聞くところによると随分と金持ちになったらしいね。さすが商人の国出身なだけある」 豪快に笑いながらも、サリサは懐かしそうに、そして愛しそうに目を細める。それはまさしく母としての顔だ。 母が王妃であることからあまり母との暖かい思い出がないシリウスは、無性に心が寂しくなる。 しかし、そんな思いを振り払うかのように、微笑んだ。 「それじゃあ、ありがたくいただきます」 「そうしてちょうだい。あんた見てると、危なっかしくてほおっておけないんだよ。どうせ長兄の子供のころの服だからね」 「そっ……そんな大切なもの、もらっちゃっていいんですか!?」 サリサがいくら気丈そうに見えようとも、息子が遠くに行ってしまって寂しいわけがないのだ。 「いいさいいさ。あんたのことだから、きっと大事にしてくれるだろう?」 そういって笑うサリサは、もうもとどおりのサリサだった。
「………はい」 初めて会ったにもかかわらず、サリサの温かさは本物だとシリウスはわかる。 旅先で出会った人の温かさほど、心に染みるものはないということを、このとき初めてシリウスは知る。 人の温かさは、さながら枯渇していた砂漠の砂に水が染み入るかのように、一人だけで不安だった心にすーっと浸透して乾いた心を潤すのだ。
「ありがとうございます」 |