酒屋は日中は普通に飲食店になるようで、昨夜のような夜独特の喧騒からは程遠く、朝のすがすがしい空気に満ちていた。昨夜はあれほど満ちていたお酒の気配はすでに皆無である。
それぞれの円形テーブルに客はまばらで、ほとんどの円形テーブルは空いている。そんな数少ない客のいるテーブルの一つに、彼はいた。昨夜見えることのなかったもう一人とともに。
そんなに注視していたのだろうか。シリウスにそんなつもりはなかったのだが、ラードとばっちり視線が合ってしまった。
ラードはシリウスに気づくと、その場を立ってずかずかと階段を降りたところに呆然と佇んでいるシリウスのもとに歩いてきた。
「おい、大丈夫だったか? 昨日は心配したんだぞ」
その表情は出逢ったときや昨夜の態度、やり取りからは思いもつかないほど、思いがけずに真摯なものでシリウスはうまく反応できなかった。
「おいおい、そんな意外そうな顔するなよ〜」
そう言って「がはは」と豪快に笑う様子はすっかりシリウスに覚えのある彼だったが。
わざとかどうかはわからないが、ラードが普段と変わりのない自然な態度で接してくれるおかげで、シリウスはようやくほっとして、笑うことができた。
「ははは。そう様子じゃ元気そうだなあ〜」
「はい、おかげさまで。昨夜はすみませんでした」
「いやいや、いってことよ」
大袈裟に手を振って否定をするラードに思わずシリウスは声をこぼして笑う。「何気ない会話が出来るということは本当に平和でいいな」とそのありふれた日常の幸せを噛みしめる。
「ラードさんはそういや、もうお酒の気配ないですけれど、昨夜はどれくらい飲まれたんですか?」
「んー? 果実酒と麦酒をそれぞれ大樽いっぱいってとこかな」
こともなげに言うラードに、素直にすごいなと思う。
「はっはっは。そんなにすごいか。ありがとよ」
「ちがうだろ。あんたのそれは大食漢ならぬ単に酒豪ってなだけじゃねーかよ」
そこに突然さもつまらなさそうな他の声がそこに混じる。
振り向いたところにいたのは、いつの間にいたのか、年のころはおそらくシリウスとそうは変わらないであろうくらいの少年であった。
その少年の背はシリウスよりも随分と低く、おそらく実の年齢よりも幼く見られることが多いだろう。シリウスが自分とほぼ同年齢だろうという予測がついたのは、その少年と同じくらいの年齢であったからだ。 目はくりっとしていて大きく、瞳の色は明るい榛色。髪は不揃いで短く、その色は明るい茶色だった。鼻筋は正直通っているとは言いがたい。総じて、平凡な容姿をした少年であった。
「おいっ、勝手に会話に入ってくんな。せっかくシーリュは素直に褒めてくれてるんだからよ」
「ばっかじゃねえ? ちげーよ。ソイツは単に世間知らずなぼっちゃんなだけだろうよ。だからなんでも物珍しいだけだよ」
本人を前にしてその言い草はなかったが、シリウスは素直にその言葉を受け取る。
(……………たしかにぼくは、世間知らずなおぼっちゃんだよな……)
不思議と今ではその許しがたい事実を冷静に受け止めることが出来た。
「きっとそうでしょうね。わかってますよ、ぼくが世間知らずだということは。―――でも……だからこそ、成長したいと思ったから、旅に出たんです」
自分ではっきりと言葉にして、そして改めて「そうだったじゃないか」と当初の決意を思い出して再確認する。
今まで自分の甘さ、世間知らずさに辟易して自己嫌悪に陥っているだけでずっと見失っていた当初の目的。
そうだ。「甘く」て「世間知らず」だからこそ、王宮を出たのだ。だから、今の自分は今の未熟なままでもいいのだ。これから、いろいろなことを経験して学んで、自分の肥しにして、成長すればいいのだから。―――――国を救うために。
シリウスははっと少年の方を見ると、少年はじっとシリウスの方を注視していた。シリウスはじっと身構える。
「あんた、名前は? おれはフェイ」
「………シーリュ」
シリウスは少年に馬鹿にされるかと緊張したが、意外にも問われたのは己の名であった。己の名は昨夜もラードに問われていたので、今回はすんなりとこたえることができた。それでも多少もたついてしまったが。
しかし、うまくごまかしきれたと思い込んだのは見当違いなのか、フェイはシリウスの名前を聞くとその榛をさらに険しいものにした。フェイの様子を見て、昨夜の緊張がぶり返すのをシリウスは感じた。
自分の正体がばれているのではないか―――――。嫌な汗が背中を伝う。
しかし幸いにも、そこへ二人の緊張状態を溶く助け舟は現れた。
「おい、ラード。もうそろそろ時間だ、行くぞ」
それは、もう一人の門番だった。
「あなたが………トートさん?」
驚いたような顔をしてトートはシリウスの方に視線を向ける。
「………ああ、たしかあんた、イスハルーンから来た…そんで昨夜ぶっ倒れたっていう―――――」
そうやらシリウスのことはラードから聞いているようだった。
「せっかく一緒に飲もうって約束だったのに、残念だったな。また、今度飲もう」
白い歯を見せてにいっと笑うトートは、ラードとはちがう鮮明な砂漠の青のからりとした爽やかさで、やはり砂漠の国の男だとシリウスは思う。
「じゃあ、悪いけれどそろそろ門が開く時間だからこいつつれてくわ。じゃあな」
あくまでも爽やかにそう言い放ち、トートはがっしとラードの腕を掴んだ。
「ということで、悪いな。なかなかゆっくり話せる暇もなくて。今度こそ、絶対に飲もう! おれらは夜しょっちゅうここにいるから、いずれ、な!」
最後にラードはウィンク一つ残して、トートに腕を引っ張られつつどっかどっかと去っていった。その様は早朝にもかかわらずまるで酔っ払いのようだった。
そしてあとには、シリウスとフェイの二人が気まずいままに残された。
「おれ、あんたのこと知ってる」
唐突にフェイは言った。
「あんた、イスハルーンの第一王子だろ? 国、あんたのせいで今大変なことになってるんだろうが。こんなとこにいてもいいのかよ?」
文字通り、シリウスの心臓は凍りつき、頭から冷水を浴びせられたような気分だった。どうしてフェイが自分のことを知っているのかという至極当然な疑問すら思い浮かぶ精神的な余裕はなく、ただ、自分の正体がばれてしまっていることのおぞましい恐怖感だけがあった。