10

 そしてその頃、当のエフィーリアはというと――――――――。
 エルフの森の最奥にある小さな湖の岸辺に座り、夕方頃からぼーっと水面を眺めていた。
(もう夜だわ………)
 空はすでに深い青で、星々一つ、また一つと瞬き始めていた。空の端っこには、冴え冴えと凍るような鋭い冷たさを湛えた細い三日月が輝いている。この森の唯一の光源は、その頼りない三日月のみだった。
 腰の下まである美しいプラチナブロンドの髪が鈍く月の光を反射させて、風にたなびく。
 髪がぼさぼさになるのもかまわず、エフィーリアは何を考えるでもなく水面を眺めていた。
 湖面は、まるで鏡のようにくっきりと銀色の三日月を映している。それだけ、湖は静かだった。湖面には、小さな漣(さざなみ)すらも立っていない。
 小動物もいない。もちろん、何の音もしない。一切の時間が止まってしまったかのような、静粛で荘厳な空間。その中に自分だけが場違いにも紛れ込んでしまったかのようにエフィーリアは感じていた。
 「追放」という現実に、あまりにも衝撃が大きすぎて、何も考えられない。何の感情すらもなくて、なんだか心がすうすうするだけだった。心が空洞のようだ。空気だけが、その空洞を吹き抜けてゆくような、空ろな気持ちだった。
 エフィーリアは真っ先に、女手一つでここまで立派に自分を育ててくれた母を、自分のせいで独りにしてしまうことに対する罪悪感を感じた。
 自分が、シリウスを森に連れ込んだのがいけなかっだのだろうか。
 いいや、そのことは後悔していない。あの時、もしも自分がシリウスを助けていなければ間違いなく彼は死んでいた。
 そうではない。責めるべきは、むしろ―――――シリウスに恋をしてしまった自分。
 今回のこの仕打ちは、人間になど恋をしてしまった自分に神様が下した罰かとすら思う。いや、実際にそうなのかもしれない。
 恋をして、我を忘れてしまっていたせいで、人間を連れ込んだことが周囲にばれてしまったのだとしたら?
 確かに彼を自分の家まで連れ帰ったときは周囲にだれもいなかったはず。それは自信がある。だとすれば、自分が恋に溺れて注意を怠ったせいで禁忌が漏れたに違いなかった。
(わたしが……シリウスさんを好きにさえならなければ………!)
 激しく自分を責める。まだあどけなさを残すその表情(かお)は苦悶でゆがんでいた。
 泣くことすら、自分に許さない。
 自分は、許されないことをしでかしてしまったのだから―――――。


 ひとしきり自分の気の済むまで自分を責め終わった後、今度は独りにしてしまう母のことが、心配になった。
「大丈夫かしら………お母さん」
 音のない空間に、エフィーリアのつぶやきだけがぽっかりと浮かぶ。
(寂しいよぉ…………)
 熱いものが、サファイア色の瞳から溢れ出して、頬をつたうのを感じる。
 そして初めて、自分は泣いているのだと認識する。
 泣きたいわけではなかった。気が付くと、泣いていたのだ。
 自分に涙を禁じたにもかかわらず溢れ出した水滴は、一度堰を切ると、次から次へととめどなく溢れ出し、とどまることを知らない。
 声すら出さずに、静かにエフィーリアは泣いた。
 哀しい泣き方だった。
 まだ年端もいかぬ少女には、この現実はひどく重かった。
 ずっと変わらぬまま他の仲間(みんな)と同じように、このエルフの里で、一生涯この森を出ることもないまま、平凡無事に生活を営んでゆくことを信じて疑ってなかったというのに。その平凡な幸せが、突然、奪われる―――。
(わたしの幸せは、ただ平凡に毎日の生活を送ることなのに。なのに………)

 そんなささやかな願いさえも叶わないというの―――?

 どうして?
 自分は、何も特別なことなんて望んでいないのに。
 長老様方の訓え(おしえ)のとおり、今の何気ない平凡な日々に幸せを感じて、世界樹様にわたしに今与えられているすべてのものへの感謝をしながら生きていたのに。
 何か自分は世界樹の気に障ることでもしたのだろうか?
 心当たりなどない。

 でも―――――でも、もしその原因が、自分がシリウスを好きになったことにあるのだとしたら………。


―――――――わたしは、一生誰も好きにならない。

―――――――死んでも………もう、恋なんてしない――――――!


 少女は、その幼い心で、残酷な枷を自らはめた。その枷が、今後彼女を大いに苦しめることになるとは知らずに―――――。


 エフィーリアは、ようやっと泣きやむ。
 ゆっくりと、冷たい夜風が、涙で濡れた頬をなでてゆく。
(気持ちいい………)
 ひとしきり気の済むまで泣いたからだろうか、そんなことを思える心の余裕が少しは出てきたみたいだった。
 エフィーリアは、素足を湖の透明な冷たい水に浸す。
 水はひんやりと、氷のように冷たかった。しかし、ひとしきり泣いて肌が火照っている今の彼女には、むしろそれくらいの冷たさの方が、肌にも、そして心にも、ちょうど心地よかった。
 水の鋭い冷たさ、風のひんやりした冷たさで、心が落ち着いてゆく。
 落ち着いてしまった心があまりにも静かで心地よくて、エフィーリアはそのまま夢の世界へと落ちていった。


 気がついたのは、外の空気がぐんと冷え込んできたからだった。肌に触れる空気の温度が、先ほどとは比べ物にならないほど冷たくなっていた。肌に突き刺さるような冷気。
 空の色も、気がつけばさらに深い濃紺に変わっていて、空には無数の星々が瞬いていた。
 空気が澄んでいた。
 なんだか、それだけで気分がよかった。
(すっかり遅くなってしまったけれど、そろそろ帰ろう。今夜が、お母さんと過ごせる、最後の夜だから………)
 きっと、母は寝ずに自分を待っていてくれる―――。
 それだけは、確信していた。

 

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