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 この日、森に雨が降った。

 バルーザ大陸に、雨が降るという現象自体珍しいことだ。

 エフィーリアは、知識としてのみ、雨を知っていた。エルフの集落は、薄い空気膜のような見えない力で集落一体が守られているため、「雨」というものを見たのは、これが初めてだった。

 初めは、「何だろう」と思った。

 空から水が降ってくるなんて、信じられなかった。

 森の神様が怒って、祟りがあったのだろうか。

 もしくは、噂のみに聞く、黒魔術という禁忌を犯したためにエルフ一族から追放された呪術師のエルフが、この森に何か呪いをかけたのだろうか。

 いずれにしても、恐ろしいことだと恐怖に戦慄した。

 これから何が起こるのか、と、今か今かと一向に待ち構えるが、何も起こらない。

 ただ、しんしんと、静かに水が空から降ってきて、深い森を―――エフィーリアよりも幾倍も背丈のある高い木を、地面に積もっている枯れ木や枯葉を、そしてその下の土を、濡らしてゆく。

 

「なんだ………何も起こらないみたい……」

 

 「ほおっ」と安心して身体の力を抜いたとたんに、寒気で身体が震えた。「何が起こるのか」とそればかりに気をとられていてじっと突っ立っていたせいで、水から身体を守ることを失念していたのだ。水が降り注ぎ、森はどんどん温度を下げてゆき、ひんやりとした冷たい空気がエフィーリアを包み込む。

 

「さ……む………」

 

 身体がぞくぞくする。寒気で震えがとまらない。それと、何だか身体が熱っぽいような気がした。

 

(風邪………? うそ……こんなときに、ひとりで…?)

 

 そうは思っても、どんどん熱さを増す身体が、その答えを伝えていた。

 

「しんど………」

 

 ふらふらしながら、エフィーリアはとりあえず冷たい水から身体を守るために、木の葉が守ってくれそうな大きな木の下へと移動した。

 「ふーっ」と息を吐いて、毛布をすっぽりとかぶり、木の根元に足を抱え込んで身体を丸めるようにして座りこんだ。そうしたら、少し落ち着いた。

 目の前で、しとしとと水が降り続ける。

 その光景をじっと見続けていて、ふっと「これがもしかして『雨』じゃないだろうか』、と思った。

 

「初めて、雨、見た。うれしいなぁ……」

 

 森を追放されなければ、一生見ることのできなかったはずの光景が、目の前に展開されていた。

 「奇跡のようだ」と思う。

 

(ずーっと、森を追放されて、これからどうしたらいいんだろうって思ってたけど。こうしてちゃんと、わたしは、生きている。何にも起こってない。身体も、この命も、声も、顔も、体温も、何にも変わらない。ただあるのは、わたしがエルフの集落を出たという事実だけ)

 

 そうだ。何も、起こっていない。

 

「大丈夫。まだまだ、大丈夫。何か使命があるわけじゃないんだから、だったらいっそのこと、長年の夢が叶ったって喜んだ方が楽しいかも。大切な人は守れたんだもの。わたしの夢も叶ったんだもの。だったらいっそのこと、好きなように、自由に、行きたいところ行ってみればいいかも。何もしなくてもいいのなら―――わたしは、旅が、したい」

 

 降り続ける雨をぼんやりと眺めながら、今初めて、望んだ形ではないにしろ、自由の身であることの歓びを、エフィーリアはしみじみと感じていた。

 

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