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 エフィーリアは、最近旅が楽しいと思う。

 初めて見るものばかりで、毎日が新鮮だ。旅の始めの頃は、そんなものを楽しむ心の余裕すらなかったことを考えると、今の自分は随分旅に慣れてきたのだろう。

 食事も、水も、睡眠も、生き物にとって必要不可欠な全ては満たされている。

 それが、集落にいたころは当たり前だった。それを思うと、

 

「本当に、『生きる』って、ただ『生きる』だけで大変なのね」

 

 そればかりエフィーリアは呟いている。

 本当は、今でも守られて生きていきたいと思っている。安全な、森の神様とエルフの男たちと母の守護のもとで、愛されて、平凡に生きたい。

 こんな、野生の動物のようなことをしなければならないなんて、まったく考えたこともなかった。

 それでも、自分の力で糧を得て生きるのも、それなりに力強くていいものだと思う。

 何より、自分の力でちゃんと生きてる、生きていける、っていう自信がもてるようになった。

 エフィーリアは今、集落にいたころよりも、自分が「生きている」気がしていた。

 

 

 夜になった。

 エフィーリアは、地面に寝転がって空を見上げていた。

 細い三日月が、弱弱しい光を森に投げかけている。

 細い月の夜、決まってエフィーリアは理由もなく不安に襲われる。

 あの三日月の細さが心許ない、あの細いのに鋭い白光が怖い、理由はいろいろあるけれど、とにかく月の細い夜が、エフィーリアは苦手だった。

 

「あとは……このまま無事に、狼に遭遇せずに森を抜けられれば、うれしいんだけど」

 

 そう、狼だ。

 ちゃんと森で生活はできるようにはなった。けれども未だに、自分の身を自分で守ることはままならない。

 「こればかりはしょうがない」とエフィーリアは思っていた。自分の体力のなさは自覚していたし、自分は女で、平和を愛するエルフだから。武器は使ってはいけないし、動物を殺してはいけない。だから、なるべく狼に遭遇しないように、と気をつける方法でいくことにした。

 毎日森で生活するようになって、少しずつだが狼のことがわかりはじめた。

 狼は、群れを呼び合うために吠える。だから基本的な防御としては、声のする方向へ寄り付かなければ、狼の群れは避けられることに気がついた。

 次に、狼の体臭だ。エルフは鼻が利く。だから、近くに狼の群れがいるときは、必ず臭いがする。風の流れを読んで、どの方向に狼の群れがいるのかを察知し、避けるようにする。狼の臭いも、森を旅するうちに覚えた。

 この二つを守る限り、よほどの不運でない限り、狼に遭遇することはないはずなのだ。

 

「大丈夫……大丈夫……」

 

 小心者で怖がりのエフィーリアは、夜になるたびいつもこうして自分を安心させようと、「大丈夫」を繰り返す。

 

「はぁー。ひとりって、だから嫌。だれか、仲間がいればいいのに……」

 

 要するに、自分を守ってくれる騎士がほしいのだ。

 

「シリウスさんがいてくれれば……いいのに、な」

 

 今でもエフィーリアは、恋心を捨てきれない。

 森で生活するようになっても、毎日シリウスの夢を見る。―――あの、幸せだった日々の夢を。

 こんなことになっても、未だに未練がましくエフィーリアの心の中にはシリウスがいた。

 恋は、忘れることの方が難しいのだと、思い知った。

 

(いっそのこと、忘れてしまえれば楽になれるのに……)

 

 どうして、心の中に甦るのは、まぶしいほどの彼の笑顔ばかり……。

 

「最後にあの笑顔を見たのはいつだったっけ……」

 

 もう、はっきりと思い出せない。

 

(そう、たしかあの日は、いきなり最長老に呼び出されたんだっけ。だから、彼の笑顔を見たのは、その前の日の夜、いつものように彼の話を聞いて「おやすみ」と言ったのが最後だった……)

 

 毎夜毎夜、「もう彼には会えないのだ」と思うと、切なさと哀しさで胸が締め付けられる。

 あれほど自分に、「もう恋はしない」と誓ったのに。

 自分が恋をしてしまったせいで、彼は殺されかけたのに。

 それでも、この胸から、彼は消えてくれはしない。それどころか、ますます鮮やかに刻み付けられる。

 

「もう、彼のことで泣きたくないのに……」

 

 名前を言うとつらくなるから、言わない。

 この胸から彼が完全に消えてしまう日など、有り得るのだろうか。

 

(わたしは、この胸から彼が消えない限り、彼とはもう会えなくても、ずっとこの恋と付き合い続けなければならない……)

 

 この忘れられない苦しさは、もしかしたら、自らが犯した罪を忘れないための楔なのかもしれない。

 今も彼を忘れられない自分を認識するたびに、自分を責めずにはいられないこと。

 彼を想うたびに、もう二度と逢えないことを思い知らされること。

 それが、エフィーリアにとってもっともつらい罰、だ。

 だれかに科された罰ではないからこそ余計に、神様が自分を罰しているのだと思った。

 

「わたしは、彼が無事でいてくれるなら、それでいい……」

 

 エフィーリアは目を閉じた。

 森の空気は夜になるとしん…と冷えて、冷たい。

 目を閉じても、冴え冴えとした月の白い光が、残像として残っていた。

 

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